飛鳥寺、東大寺にみる日本の思想―空(クウ)-

初めに

 「色即是空」とは般若心経にある有名な言葉である。簡単に解釈すると、形あるものはすべて「空(クウ)」であるということである。ここでの「空(クウ)」は「無いがある」ということであり、それはつまり「間」に他ならないのではないか。私たち日本人特有の概念として「間」の概念が挙げられる。私は「間」の概念が日本にはあると国語の教科書でも習ったことがあるし、「間」の概念は古来から日本人の共通概念であったといって差し支えはないと思う。間とは空間であり、リズムの休符である。逆説的な繰り返しになるが「間」とは「無いがある」ことである。

私は無宗教である、と答える人の割合が日本では70%を超えているらしい(※1)。実際の定義として無宗教であるかどうかは別として、これが日本の「間」の概念をあらわすものだと考えている。日本の思想について丸山真男は「日本に思想はない」と書いている。この「思想はない」という「ない」は「無」ではなく「空」であるといえる。私たちは元旦に初もうでをし、クリスマスを祝う。入れ物としての「空」、取り換え可能の「間」である。

ここで(やっと)はじめの「色即是空」に戻りたい。「色即是空」はまた「空即是色」である。「色」とは形である。「形」を最もよく表現しているのは建築であることはいうまでもないだろう。そこで、日本人の根底にある共通概念としての「空」を日本建築「史」の中に見て取ることができるのではないだろうか。この「空」、「無いがある」ことは変化の中でしか見出すことができない。戦後を代表する思想家の一人である山本七平は「日本の中心には真空がある」といった。中心が真空であるということは、渦巻きがうまれ周りのものは吸い込まれていく。日本建築史を貫く概念はその「空」、つまり吸い込まれていく過程、取り込むための技術のなかから見出すことができるのではないか。そこで今回は飛鳥寺東大寺という寺社建築における大きなターニングポイントになりえるふたつの建築において、どのように外から「かたち」が取り込まれていったのかをみていく。(つまり今回は、建築技法としての「間」ではなく、建築思想(日本の思想)としての「間」に注目したい。ということである。)

 

飛鳥寺

 日本で初めての本格的な寺院は飛鳥寺とされている。用明2年(西暦587)年、曽我氏は物部氏との戦に際して寺院の建設を計画し、勝利後の翌年に本格的に計画が実行に移された。この際に活用されたのが「百済」からの人員である。仏舎利とともに僧、寺工、露盤博士、瓦博士、画工ら寺院の建設に必要な人々が日本に派遣された。飛鳥寺の建築は現存していないが昭和31年からの本格的な発掘調査によって多くの事実が明らかにされた。伽藍の中央に塔、それを取り囲んで3棟の金堂があり、全体を回廊が囲む。これは高句麗などに類型のある形式で、朝鮮半島の伽藍形式がそのまま持ち込まれたと推定されている。また軒瓦の文様は百済の扶余で出土するものに酷似している。

 初めての仏教建築はほとんどすべてと言っていいほどに大陸、朝鮮半島から持ち込まれた。ただしここで注目したいのは塔の中心にいちする塔心礎から出土した埋葬品のなかには古墳に埋葬される玉や鈴などが含まれ、これは古墳時代の伝統がそのまま残ったと考えられている。日本初の寺院の建設が島の外からの強い影響下にあったことは確かである。日本がまわりのものをうずのように取り込んで活用していくという思想がここにおいてもはっきりと見られる。

 また7世紀の寺院建築で現存する(今みられる)法隆寺は雲型の肘木、斗(マス)を使用すること、組物が天秤形式で軒を支持することなど朝鮮半島経由で日本にもたらされた東アジアの古式の技術を示している。また細部の人字型割束、卍崩しの高蘭などは中国大陸の石窟のレリーフに表されている。このことからも朝鮮半島、中国大陸両方の技術を上手く取り込んでいることがわかる。伽藍など、取り込まれた技術は「伝統」としてその後も受け継がれていくことになる。

 

東大寺の再建

 治承4年(西暦1180年)東大寺は、源平合戦のなか焼き討ちにあい壊滅的な被害を受ける。このときに焼失した主要伽藍の復興は、鎌倉時代初頭における一大事業のひとつとしてあった。このなかでも大仏殿の再建には解決すべき大きなふたつの問題があった。ひとつは木材の調達である。大仏殿は当時でも最大級を誇る建築であり、その再建には長く径の太い大木を多数用意する必要があった。もうひとつは地震などの水平方向の力に対して、太い柱の自立性に頼る構造からより安定した構造を採用しなくてはならないことであった。

 これらの課題を解決するために、中国から新たに導入されたのがそれまでの建築とは異なる新様式である大仏様であった。大仏様の基礎となったのは中国福建省近辺の建築様式で、宋からの技術、手法が活用された。貫、挿肘木などが発展した形で多用されたこの大仏様によって、東大寺の再建に必要であった、材木の節約、水平方向に対する構造的安定性というふたつの問題解決を得た。このことが表しているのは、これまでの和様という様式をがらりと変え、コストパフォーマンスのために大仏様に取り換えてしまった日本の「空」思想ではないだろうか。

 

まとめ

飛鳥寺法隆寺)の中心の塔は、インドのサーンチーであり、宇宙の中心であるストゥーパを表しているといえるが、薬師寺東大寺では塔の中心性は失われ、大仏が中心に据えられている。このように日本の建築思想はそれぞれの思想のいいとこどりをして、つねに流動的に変化しているといえる。今回は飛鳥寺東大寺再建に焦点を当てたが、賀茂別雷神社の式年同体の考えかたもこの「色即是空」の思想があらわれているといえるのではないだろうか。つまり日本の建築においても物自体に大きな価値はなく「言葉」にして語ることのできない思想やランドスケープこそが大切なのであり、常に仮の住まいである、という考え方である。明治になると今度は西洋建築様式を丸のみに近い形で自分のものにしてしまう。しかしこれは西洋思想に鞍替えしたのではなく、その変化、過程こそが日本の(建築)思想であるのではないだろうか。

もちろん、これは日本の建築が最初からオリジナルで無いことを批判するレポートではない。日本の建築はそれぞれのいいとこどりをしながらもその中で独自の発展を遂げてきた(これは製造業にもスポーツにもいえる)。寺社に最も多い絵様として「渦」と「若葉」がある。これは日本が周りのものを取り込み成長してきた日本の思想と建築をあらわしているように思えてならない。現在でも日本の中心である皇居は渦の中心に位置している。

 

 

※1.無宗教と主張する日本人は7割を超えるということについて信頼のおける統計は見つけられ無かったが、文部科学省の実地している宗教統計調査平成23年度版ではそれぞれの宗教の信者数を合計するとほぼ2億人になる。日本の人口は1億2千万ちょっとなので、二つの宗教に属する人が8千人もいることになる。自覚的な信者数が2、3割であるというのは納得できる数字である。

 

参考文献

・カラー版 日本建築様式史(1999年) 監修 大田博太郎 美術出版社

・無思想の発見(2003年)養老武 精興社

 

 

あとがき

 

 ひとつの建築について述べようと思ったのですが、様々な文化、思想の影響を受けてきた日本の建築というものに大きな特徴を感じ、日本の思想についてとからめて論じることにしました。調べた範囲でも日本の建築の経済観念の素晴らしさには感嘆するばかりでした(皮肉ではなく)。私は上海にいったときに上海租界をみてそこに明らかな境界をみました(古い建物なので当たり前かもしれませんが)。それは日本にある西洋建築をみるときとはあきらかに異なる境界でした。その経験もあり日本の様々なものを取り込んできたオリジナリティというものを文にしてみようと思いました。もっと技術と時間があれば他国との比較も行いたかったですし、もっと触れるべき部分もあったかと思います。とても稚拙な(参考と言えないくらいの引用のある)文章ですが、建築史の古に少しでも反映されていれば幸いです(建築の私的解釈になっていないことを祈ります、史的解釈がふくまれることを祈ります)。